日々の泡

アート中心の日々の出来事、雑記。

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東日本大震災にふれて


「東日本大震災にふれて」
「ゴッホについてその2」を書く予定だったのですが、どうも書く気持ちが起こらない。やはり3月11日を境に興味や関心そして感情が変わってしまった気がする。それもあって今回は震災や原発とアートと絡めたテキストにしようと思った。

3・11の地震、津波、そして極めつけの原子力発電所の事故と災害3位一体によって神経と感情が揺さぶられおかしくなってしまった方も多いと思います。斯く言う僕もその一人です。テレビや新聞などのマスメディアが信用できなくなり、地震をきっかけにツイッターを始めたら情報が洪水のように入ってくるようになりさらにパニックになりました。ただ、震災直後からツイッターでは海外メディアのコメントも入ってきて、さらに物理学者や原発で働く技術者のコメントなど、盛りだくさん。で、翌日からメルトダウンしていたという意見が大多数でした。そしてその後の水素爆発が起きて放射性物質が東日本全体に拡散し、海外の政府は自国民に日本から離れるようにと通達を出しました。その頃、朝日新聞社系の週刊誌アエラが「放射能がやってくる」というショッキングな記事をメインにし、防護服を着た人間がビジュアルの表紙を使ったこともあって、さまざまな言論から「不安を煽るな」として攻撃されました。

でも今振り返って考えるとアエラも正しかったし海外メディアや避難通達も間違っていなかったことがここ何日の報道で証明されてしまいました。ある意味インターネットの勝利そして既得権益化した大手マスコミ・ジャーナリズムの限界が露呈してしまいました。ツイッターからの情報は不正確なものもありますが、受け手がそれを正しく理解していればほとんど惑わされることはないと感じられました。

僕のまわりの若者のほとんどがツイッターを活用しいて大手メディアのことをほとんど信用していません。批判することではなく、相手にしたって時間の無駄と感じているのでしょう。それよりも、今これからを生きていくのに精いっぱいで、大手メディアの情報は彼らの生存にとって不必要、信用できない。そんなことが今回の震災や東京電力福島原子力発電所事故でさらにはっきりしたように思えます。

エジプトやチュニジアはフェイスブックによって革命に近いことが起きましたが、日本もそれと違った形で戦後を作ってきた様々な価値がくずれてきていて、その象徴が原発事故という気がします。東京電力の様々な対応、労働者に対する扱いや情報の隠ぺい、官僚との癒着などは日本の大企業の体質そのもので、多かれ少なかれどこでも起きていること。この事故は戦後日本が抱えてきた闇があぶり出されているようで、あらためてその非人道ぶりには背筋が寒くなります。東電の経営人や原子力委員会の語る言葉は同じ言語を話していると感じられない言語、そこにいるのに存在していない、顔が無い人々。まさしくバベルの塔の世界です。

新しい価値観を新しい人たちと作っていかないとあまりにこの国で生きることは不幸になってきてしまいした。今若者も子供達も福島で何が起きてどうなっているのか静かにしっかりと見ていると思います。何年かしたら自分達が受けたことに対する意味と価値そして生存に為に動き出すでしょう。そんなこんなで、アートの意味や価値感も揺さぶられていますし、揺れなくてはいけないでしょう。



先日、やっと被災地を訪れる事ができました。2日間という短い時間でしたが、ARDAというアートのNPOのスタッフと忙しく動き回り様々な物事を見ることができました。ARDAは保育園や児童館そして老人ホームにアートやアーティストをデリバリーしてWSを行ったり展覧会を開いたりしている非営利組織。その理事やスタッフと一緒にバスで仙台へ。現地で宮城教育大学に勤めているアーティストがいて、彼の案内でまず被災地へ。

最初は仙台市若林区。爆撃を受けたような土地が延々と続く、延々と。自分が今見ている光景が信じられない、その信じられない光景が続くと感覚が徐々にマヒしてくるのがわかる。同行したメンバーも次第に口数が少なくなってみんな黙りこくってしまった。それはテレビで見る映像とはまるで違う世界。
テレビってすべて記号化しフラット化していく暴力的なメディアなのだと改めて感じる。

ぐしゃぐしゃに歪んだ自動車が奇妙なフォルムのまま横に斜めに2台3台と重なりあい、鈍い色彩を放っている。焼けた工場が内臓のような内部をさらけ出している。住宅なんか何ほとんど残っていない、あるのはたくさんの瓦礫とヘドロに埋まったゴミや車。片付けられているのは道路の周りだけでその外側はほとんど手つかずのままだ。たまらなくなって車を降りて歩く。ほとんどの車はナンバープレートが外されていて、ところどころ車に×マークがついている。ヘドロのにおいやほこり、重機の音そして海からの冷たい風。

見ている光景が意味することがわからない、僕の感覚の範囲を越えてしまっている。多分それは圧倒的な広さ、拡がりそしてその無残さによって今までの認識と視覚からのイメージが、かみあわなくなってしまったからだと思う。神戸の地震も2カ月後に現地を訪れたのだが、これほどの衝撃は受けなかった。復興という言葉はまだまだ先だろうといことだけはわかった。合掌。


次は多賀城市七ガ浜の避難所へ。それほど大きな規模ではないがボランティアセンターや日本財団の事務所もあって興味深かった。避難している方々がいる場所は当然プライバシーの問題もあって見ることはできなかったが、丁度夕食の時間帯。どんな夕食なんだろうと少し興味津々。炊き出しのおかずは焼きそばやお肉など想像していたよりもまともだったけれど、並んで食事を受け取る姿・表情は決して明るいものではなく複雑で様々な陰影を含んでいるように感じられた。センターの所長と面会する時間をいただき、子供達やボランティアさんたち気持ちをほぐしたり発散したりするにワークショップができないかをお伺いしてセンターをあとにする。

またそれから海沿いの被災地をめぐり、もとは海に面した公園だった場所で海に流され波に合わせて閉じたり開いたりしているコンテナをボーっと見いってしまう。震災前はステキなデートスポットだったろうな。車で少し走ると、近くでは自衛隊が水に腰まで浸かりながら水の中から何かを捜索していた。無言でその作業は迅速で、黒く細長い物体を数人で担いで行った。

夜は食糧を調達しているNPOを訪ねてお話を伺った。スタッフは元ホームレスの方が働いていたり埼玉でペンキ屋をしていたが仙台でボランティアを体験したことで何かに目覚めたのか、仙台に移住してそのNPOに勤め始めた若者がいたり、おもしろい。報道されにくいが、災害がきっかけで色々なことがおきているんだ。
夜飲みにいったフードバンクというNPOの方も東京から仙台に引っ越してきたと言っていた。話を聞くと被災しなくてもそんな風に人生変わってしまった人たちたくさんいるらしいと陽気に話してくれる。また、原発事故の話になる。東京はどちらかというと原発事故に興味が移行しつつあるけれど、被災地で活動する方々は目の前のこの状態を何とか改善することでリミットのためか、原発事故に対しては驚くほど反応が鈍かった。

夜の仙台国分町の歓楽街はすごいにぎわいでびっくり、入ろうとしたお店が一杯で3軒も断られて仕方なく店の外で飲む。外には若者があふれ奇声を上げている。聞くと市内はやっと水道や電気がなどのライフラインか回復し、外で飲むことができる空気感が生まれ始めた初めての休日の前日だったようだ。溜まっていた感情が噴出して国分町を覆っていた。町はどこか過剰に明るく、さながら鎮魂のためのお祭りの夜のようだった。

次の日はタクシーで仙台駅へ。タクシーの運転手さんがかなり饒舌で、聞いてないのに同僚が被災し新築の家を失って会社に1カ月出てこなかった、出勤してきたが、かける言葉が見つからなかったと喋りまくる。やはり同じ仙台市内でも津波の被害を受けた海沿いの地域との温度差があるんだなと改めて感じる。最後に東京から仙台に来てくれてありがとうございましたってお礼を言われた。何だかじんと来てしまった。こんな時だから人と話すことは思わぬ風を運んでくれるんだなと改めて感じる。

仙台駅から仙石線で東塩釜駅、そこからバスで東松島市を目指す。最も被害者が出たといわれている石巻行きのバスの車内はみな無言で蒸し暑くその空気は重く苦しかった。皆さんいろんな思いと現実を抱えてバスに乗っているのだろう。1時間以上かけて矢本駅へ、そこから再び野蒜駅までタクシー。


野蒜駅舎の時計は2時47分で止まったままだった。この野蒜地域で、またすさまじい津波の爪痕を見ることになった。駅から海の方は少しだけ歩くと遠くに中学校が見える。ここでも多くの方々が亡くなっているそうだ。そして野蒜の町、その町がそっくり消えている。だがそこにはつい最近まで人々が生活していた痕跡がそのまま残っていて、いかに突然、圧倒的な暴力がこの町を襲ったかがわかる。

基礎だけが残っているため家の間取りがそのまま残り、食器や盆栽や写真などが散乱したまま。間取りや残っている調度品からどんな生活を送り、生きていたのか判ってしまうくらい生々しい。まわりの防風林の松もほとんどなぎ倒され、その木に色とりどりの引きちぎられたような服が多数ひっかかっている。自動車のドアや部品までもがぶら下がっている。ある意味とても意外性があり美しい光景。同行した方はまるで、「アートね、インスタレーションみたいだね」とつぶやく。ほんとに、すごいアート見たような衝撃。

それはヒューマニズムを越えたある種の残酷さを持つ神の表現、神の暴力?こちらも言葉が出てこない。でもこれはアートのように見えてもアートではなく災害なのだ。そして多くの命がここで失われている。ただ、今回の災害の人間に対する暴力的な投げかけは、すぐれたアートが人間にとって善悪を越えた啓示のようなものとして存在してしまうことと共通する何かがある気がする。

そのような場所を歩き回っていると自分が見ているものの意味や輪郭みたいなものが段々ぼんやりしてくるのが感じられる。悲惨な光景の意味と感覚が結びつかないのだ。その感覚は僕の身体に未だに残っていて僕を疲れさせる。

疲れ果てて仙台行きの帰りのバスに乗る。同じ海岸線でも被害がほとんどない地区もあるのだ。松島もあいかわず美しく、バスからみただけだが景観に震災の影響は思ったより少なそうで、大好きな観光地だけに少しだけホッとする。
 
仙台ではアートインクルージョンというアートイベントの主催者に会ってワークショップのことなど伝える。今の段階ではどういった形でできるかわからないが、6月に再訪し実施するつもりだ。
帰りのバスがゴールデンウィークに重なってしまい、仙台から東京まで7時間30分、さらに小田原まで1時間30分、疲労困憊で帰宅。

よく言われ始めた今回の災害でアートやアーティストに何ができるか考えるより、僕は自分にできることをしにいくだけだ。それが結果としてアートでなくなっても全くかまわないと思う。むしろそんな枠組みにとらわれることこそ貧しい思考だし、アートから遠い行為だと思う。

避難所暮らしでストレスが溜まっているだろう子供達。様々な感情を描くこと、色彩と遊ぶことで遊び心を取り戻してほしい。またプライバシーが無くなって引きこもりたい、自分だけの時間・世界を確かめたいという子供もいるはずだ。そんな子供たちにもひとりで集中してもらうようなそんなワークショップも計画している。実際問題としてはこれから助成を得られるかわからないのできびしいけれど、始まれば何か風景も変わってくるだろう。はじめから着地点を考えていて動いていては未知なるものには出会う可能性は低いだろう。

今回まわることができた被災地は今回の災害のごく一部にしか過ぎず、このような惨状が北は岩手から南は千葉くらいまで太平洋岸でずっと続いていると思うと途方に暮れてしまいます。さらに福島では原発事故があって色んな意味で先が見えず、不安感とともに生きることを覚悟させられます。

思うに、最近の日本人は(僕も含んで)永遠に生きると思い込んでいたのじゃないかと感じます。理屈では生きているものは必ず死ぬ運命にあるということはわかっていたと思いますが、死を隠ぺいし老いを遠ざけて、感覚的に不死を生きていたんじゃないかと。たとえば日本の中世などは平均寿命が約50歳で現代に比べてとても短く、なおかつ飢饉や災害、病気などで死がまじかに存在していた。人間はいつも死を意識して生きていた。だからこそ生を強烈に生きることができた。そしてこの時代はだからこそ親鸞や空海、道元など今からみても世界的な思想家・宗教家が生まれたのだと思う。

これからの時代はあらゆるもの、命も、エネルギーも、水や食糧もすべて限りがあり永遠はない。奪い合うのではなく、分かち合い生きること。限界からの光によって生きることが豊かさにつながっていく気がします。新しいことを価値として可能性を拡げることを自己目的化してきた現代アートも揺れて動いていくことになるかもしれません。

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